阿部将翁事蹟資料
- 阿部将翁(名は照任、1667頃-1753)については、「享保時代でもっとも著名・有能な本草家の一人」「朝鮮人参の栽培は照任に始まる」「田村藍水や幕府採薬使植村左平次も照任の弟子」などと、諸書に記されているが、同時代資料にはそれを裏付ける記述が一つも見付からない。一方、本資料は照任のまったく別の姿を伝える。照任は享保12年(1727)と14年の2回、幕府採薬使として単独で南部領を訪れたが、12年には南部藩に「御手当」と「薬草木の植え場の設置」を要求、14年には御手当を2回も受け取ったほか、多量の鉱石や薬草木の採取と江戸への送付を「御用」と称して求めた。いずれも幕府の指示が無い件なので、南部藩は困惑して幕府に訴えた。その結果、照任は「戸締メ」(閉門か禁足)に処せられ、以後は幕府の採薬使を命じられることも無かったのである。当時、幕府は朝鮮人参の国産化に着手していたが、照任はその試みにも加えられず、幕府が人参国産化に成功した後の延享元年(1744)になって、私に任せてほしいという内容の『人参言上書』(特1-3304)を提出するという笑止な進言をする始末であった。なお、本資料には照任以外の採薬使関連記事や、将軍吉宗の物産政策に関わっていた丹羽正伯との応答なども記されている。(磯野直秀)